宝物拝観案内

今の大樹寺
明治維新で、将軍菩提寺として財政的基盤を失い、かつ明治政府による神仏分離策に、かっての鎮守杜も分離され、一般寺院としての道を歩む事になりました。明治6年には境内に大樹寺小学校が開校され、この地にあった塔頭(たっちゅう)寺院の回向院、善揚院、忍阿院も独立寺院として現在の地に移転しました。大樹寺近辺の、西光寺、真如寺、慈光寺をあわせて6寺院を山内寺院と言っています。
幕府が倒れて以後、寺勢は衰退に向かいましたが、文化財については、国、県、市指定の重要文化財が多数残されましたのでご案内をします。

寺の文化財

文化財の保護

大樹寺は安政2年(1855)失火により主要建物を消失しましたが、その後、第二次大戦で岡崎の街が大きな被害を受ける中、幸い被害を蒙ることなく現在に至っています。
昭和の50年代までは、虫干しをかねて文化財の一般公開を行ってきましたが、文化財の管理保護に万全を期すため、公開の場を兼ねて収蔵庫と位牌堂を建設しました。岡崎においでの際には是非お寄り下さい。なお書画、古文書の一部は市の博物館に管理をお願いしています。
また、整理と文化財指定の都合上、建物、彫刻、絵画、工芸などとう分類に従っていますが、寺ではこれらの多くは信仰の対象として大切にしているものです。寺付近の檀信徒・有志の人たちにより、自衛消防隊を組織して災害にも備えています。

おことわり
管理の都合上文化財の一部に岡崎市の美術博物館に行っているものがあります。 大樹寺内で見ることができない文化財もございます。

文化財として国県市から指定されたものは次の通りです。

国指定重要文化財多宝塔明治37年指定
大方丈障壁画昭和29年指定
如意輪観音図
県指定文化財山門昭和30年指定
総門
裏門
鐘楼
山越阿弥陀如来図
当曼荼羅絵
二十五菩薩来迎図
本尊阿弥陀如来坐像昭和58年指定
勢誉上人坐像
古文書10巻
岡崎市指定文化財****
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建物

大樹寺の建造物

建造物については上のメニューバー「境内案内」から覧下さい。
安政2年(1855)の火災もあり創建当時の詳細は分かりません。寺内最古の建物は天文4年(1535)年完成の多宝塔です。ついで寛永の大造営で立てられて山門、総門、鐘楼があり、火災後の安政の本堂や大方丈があります。
 

国指定重要文化財多宝塔天分4年建立一層は方形、二層は円形の釣合いの取れた多宝塔です。
県指定文化財山門(三門)寛永18年建立3間1戸重層楼門、屋根入母屋造、本瓦葺、上層に床を張っている。左右に山楼を置、山門の規模から見て安政消失前の本堂はもっと高かったものと推測されます。
総門寛永15年建立3間薬師門、屋根切妻造、本瓦葺、3間中央間を広く取って戸口とし、向かって右側に潜り戸口があります。本堂、山門、総門を通して岡崎城天守閣を遠望することが出来ます。大樹寺の見所のひとつです。
裏門
鐘楼寛永18年建立、重層袴月、屋根入母屋造、本瓦葺です。
本堂安政4年建立、屋根入母屋造、本瓦葺、前面に1間の向拝がついています。
大方丈安政4年建立、屋根入母屋造、周囲に1軒の広縁が付いています。
岡崎市指定文化財****
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仏像

大樹寺の彫刻

安政2年(1855)の火災により主要な建物を消失しました。孤立していた建物は消失を免れましたが、古い作品の数は多くありません。

県指定文化財木造阿弥陀如来坐像(本堂)平安末期、寄木造、彫目、像高140cm、安政の火災後、京都泉湧寺から迎えられました。
木造勢誉上人坐像(開山堂)明応6年(1497)定清作、寄木造、玉眼、彩色、像高79cm、胎内背板銘より勢誉54歳時の寿像(存命中の像)である事が分かります。
寺宝木造地蔵菩薩立像(本堂 客仏)室町時代、寄木造、玉眼、像高79.8cm
木造多宝塔如来坐像(多宝塔)室町時代、寄木造、玉眼、像高69.5cm
木造阿弥陀如来像(庫裏)室町時代、寄木造、玉眼、像高35.5cm、胎内心木より安政の火災後に迎えられたことが分かります。
木造徳川家康坐像江戸初期、正保4年左京法橋康以作、寄木造、玉眼、彩色、像高47cm、現在墓地になっているところにあった御霊屋に安置されていたものです。戦前の国定教科書に載っていた家康公の写真はこの木造です。
木造釈迦如来三尊・十六羅漢江戸初期、正保4年、尾張藩主徳川義直が寄進したものです。

絵画

大樹寺の絵画

安政2年(1855)の火災では、幸い宝蔵が独立してあったので火災を免れ、古い作品が多くあります。
絵画としましたは、仏画と大方丈の障壁に大別されます。

国重要文化財絹本墨画淡彩如意輪観音図鎌倉時代、縦横88.5cm×36.7cm、家康の祖父清康の寄進したものです。一般公開はしていません。
冷泉(岡田)為恭障壁画安政の火災後再建された大方丈と本堂に描かれた、冷泉(岡田)為恭の作品群です。総数145面で、色彩の豊かさと、有職故実の考証が確かなことが特徴とされています。現在は収蔵庫内で一般公開しています。
1.絹本着色子日(ねのひ)図円融天皇子日の遊びを描いたもので、上段の間の天井と畳を除いた前面を使用して、王朝風大和絵の手法で描かれています。
2.紙本着色琴棋書画図上段の間の違い棚上の天袋に描かれたもので、君子の遊びとされた琴・棋・書・画が極彩色の和絵の手法で描かれています。上記の図と同室に描かれていながら違和感がありません。
3.紙本着色茸狩図三条左大臣の茸狩りの遊びを、次の間の戸襖の全面を用いて大和絵の手法で描いたものです。
4.紙本着色鶴図次の間の西側、通称鶴の間の襖に描かれた鶴と竹の図です。
5.紙本着色牡丹図鶴の間の南の通称牡丹の間に描かれた襖・壁に描かれた図です。
6.紙本着色鉄線花図牡丹の間の南側、通称鉄線の間の襖絵です。
7.紙本墨画春秋山水図
8.板絵著色花果籠図
9.板絵著色柳陰浴馬図
10.板絵著鴛鴦図
11.板絵著色蘇鉄猫図
12.板絵著色布袋唐子図
13.板絵著色岩に郭公図
14.板絵著色岩に鷹図
15.板絵著色東遊図
16.板絵著色松に桜図
17.板絵著色紅葉滝図
18.板絵著色陶渕明図
19.紙本著色蓮池図
県指定文化財絹本著色当麻曼陀羅(とうままんだら)絵鎌倉時代、縦横166cm×181cm、奈良県当麻寺所蔵の曼陀羅の模本です。
絹本著色25菩薩来迎図鎌倉時代、縦横12966cm×60.4cm、阿弥陀如来が観音・勢至菩薩や25菩薩を従え来迎する姿を描いたものです。
絹本著色山越阿弥陀如来図鎌倉時代、縦横138。2cm×82.5cm、阿弥陀如来が山の向こうから世を照らす構図を山越え阿弥陀如来図といいますが、本図は一般のものとは様式上かなりの違いがあります。
寺宝絹本著色阿弥陀三尊来迎図
南北朝時代
絹本著色阿弥陀三尊来迎図
室町時代後期
絹本著色阿弥陀来迎図
室町後期
絹本著色阿弥陀図室町時代、伝張思恭筆、大永7年(1527)補修の銘があります。
絹本著色阿弥陀図室町時代、開山勢誉愚底念持仏です。

工芸

大樹寺の工芸

ここに、ご紹介する、松平家および歴代徳川将軍の位牌と貫木神は工芸に分類されます。
しかし、大樹寺としましては信仰の対象としているものです。

松平家徳川家位牌

元和元年(1615)大阪の陣で豊臣氏を滅ぼして徳川幕府の安泰を確立しましたが次の年発病し、病状が悪化する中、家康の死後の処置について遺言しました。それは、「遺体は駿河久能山に葬る事、葬礼は江戸増上寺で行うこと、位牌は三河大樹寺に立てること、一周忌が過ぎたら下野日光山に小堂を建てて勧請せよこれにて関八州の鎮守とせよ」というものでした。
家康が遺言したように、大樹寺に立てられた事でしょうが、安政の火災で記録が焼失しているため 定かではありませんが、おそらく一周忌には位牌は調整されていたものと思われます。
ただし、現存の位牌は当時のものではなく、家康の13周忌にあたる寛永5年(1628)年尾張藩主義直が調進したものです。
位牌の高さは、将軍の身長にあわせてあると言われますが、素朴で堂々としていると評されています。 上の写真が空調設備の整った位牌堂です。中の写真が徳川将軍歴代のいはいです。下は松平家歴代の位牌です。

貫木神

1970年の大樹寺の陣で家康が切りつけた刀傷おある門の貫木(かんぬき)は、後に「貫木神」として祀られるようになりました。貫木は159cm、10.3cmの角材です。山門または西門の貫木といわれています。江戸へ参府の際には密かに携行し徳川家の武運長久を願ったとされています。また、江戸では、しばしば公開されることがあり、寺の運営資金を稼いだとも言われます。
上の図面は、江戸で公開したときの文書に添付された図面で、これが現在、大樹寺大方丈に祀られている「貫木神」です。